黄昏みゅうぢっく〜歌のない歌謡曲に愛をこめて〜

昭和40年代の日本大衆文化の重要構成要素、「歌のない歌謡曲」のレコードについて考察します。

今日は本田路津子さんの誕生日なので

テイチク SL-1392 

喝采 エレクトーン・ムード・ニュー・ヒット歌謡14

発売: 1972年12月

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ジャケット

A1 虹をわたって (天地真理) 🅷

A2 狂わせたいの (山本リンダ) 🅶

A3 喝采 (ちあきなおみ) 🅴

A4 バス・ストップ (平浩二)

A5 同級生 (森昌子) 🅴

A6 夜汽車 (欧陽菲菲) 🅺

A7 漁火恋唄 (小柳ルミ子) 🅶

B1 哀愁のページ (南沙織) 🅸

B2 耳をすましてごらん (本田路津子) 🅱

B3 雨 (三善英史) 🅲

B4 女のみち (宮史郎とぴんからトリオ) 🅺

B5 折鶴 (千葉紘子) 🅱

B6 恋唄 (内山田洋とクール・ファイブ) 🅵

B7 旅の宿 (吉田拓郎) 🅻

 

演奏: 小泉幸雄とクインテット

編曲: 小泉幸雄

定価: 1,500円

 

音楽を語る時についつい使ってしまう「チージー」という言葉、果たしてどこから発生したものなのだろうか…例えば、英語圏の人なら「恥ずかしすぎて、ついつい(周りにチーズがある時のように)顔を背けたくなってしまう文化」に対してその言葉を使う場合が多く、特に70年代や80年代に対して顕著だ。ただ、それゆえに愛しさを感じてしまうというニュアンスも多少は含まれていそう。くさやだろうが、超空腹時にそれだけ差し出されたら思わず食うでしょ。ただ単に肌に合わないのなら、「シ◯ト」の一言で片付けてしまうだろうし。自分も、いくらその頃に酷い仕打ちを受けた記憶があろうが、少年時代を育んでくれた文化をシッ◯扱いなんてしたくない。社会に出てからとなると意味合いが違ってくるけど。

そんな自分がついつい「チージー」と形容してしまう音は、ある種の電子キーボードの音に限られる。それぞれの時代の最新テクノロジーにしか醸し出しようがない音色故、そう簡単に再現できるものではないし、その時代の空気を濃厚に再現してくれるものなのである。そんな「チージー」なキーボードの音色を、他の誰の演奏よりも堪能させてくれるのが、テイチクに残された小泉幸雄さんの歌無歌謡レコードだ。琴やハワイアンの冴えたリリースが多い「ニューヒット歌謡14」シリーズに、何枚か残されたうちの一つで、72年後半のヒット曲がいっぱい。

まずは問題作『モーグサウンド・ナウ』のタイトル曲にもなっている「虹をわたって」。そのモーグの先鋭的なサウンドと比較すると、このエレクトーンの音はあまりにも牧歌的で、まさしく「チージー」としか言えない…同じ時代の音楽なのに、なんなのだこの温度差は。それ故、こちらをたまらなく愛でてしまう気持ちも高鳴る。ヴァイブ、ギターなど周りを固める音も、あまりにも長閑で、例えば山内さんの「太陽がくれた季節」なんかの実験的サウンドからは効果的に揺り返せる。かと思えば狂わせたいのではロック色を出そうとした挙句、地方のGSの自主制作盤に通じるカラーが現出している。ファズも過激というより、鄙びた印象だ。こんな軽量化した喝采も悪くないし、意外にもベースががんばっている。意外にも「バス・ストップ」は今回が初登場だ。名曲なのに、意外と他社に取り上げられてなかったのですね。「同級生」はイントロの「ピポピポー」に着目して聴いてしまうが、ここでは意外にもオルガンで完全に音をずらし、不思議な効果をあげている。「漁火恋唄」の「ハァー」パートはまさかの超軽量盆踊りモード。これも悪くはない。「哀愁のページ」は鄙びすぎて脱力してしまいそうだけど、演奏そのものはこけていない。「雨」はビクターの大正琴ヴァージョンの、「女のみち」はワーナーののこぎり京琴ヴァージョンの印象がそれぞれ強すぎて、負けるのもしょうがないけど、全体の流れにははまっているし、「折鶴」も多少間延びしたフレージングとは言え、原曲の魅力は損なっていない。「旅の宿」では鍵ハモがエレクトーンとバトるが、これも小泉氏の演奏なのかな。

最後に今日の主役・本田路津子さんの「耳をすましてごらん」の作曲者は、現代音楽の巨匠・湯浅譲二氏。怪作「ヴォイセズ・カミング」を小学生時代にラジオで聴いて、相当衝撃を受けたのを思い出しますが、宗内の母体の創作活動にもその曲は影を落としてますね。歌無歌謡盤で聴くとロマンティックな側面しか伝わってこない、こんな曲をもものにしたのもまた芸術家気質なんだなと、胸が熱くなります。ジャケットの椅子、欲しい…