黄昏みゅうぢっく〜歌のない歌謡曲に愛をこめて〜

昭和40年代の日本大衆文化の重要構成要素、「歌のない歌謡曲」のレコードについて考察します。

真のクールネスはプログレと背中合わせ

コロムビア HS-10018-J

ニュー・ヒット14 クール・サウンズ

発売: 1970年8月

ジャケット(隠蔽済)

A1 夏よおまえは (ベッツイ&クリス) 🅵

A2 昨日のおんな (いしだあゆみ) 🅺

A3 雨にぬれても (B.J.トーマス) 🅶

A4 泣きながら恋をして (ジャッキー吉川とブルー・コメッツ) 🅴

A5 空よ (トワ・エ・モワ) 🅴

A6 今日でお別れ (菅原洋一) 🅺

A7 ふたりの天使 (ダニエル・リカーリ) 🅱

B1 雨の訪問者 (フランシス・レイ) 🅲

B2 わたしだけのもの (伊東ゆかり) 🅸

B3 鳥になった少年 (田中のり子) 🅱

B4 コンドルは飛んで行く (サイモン&ガーファンクル) 🅴

B5 経験 (辺見マリ) 🅸

B6 夢の女 (井上博とシューベルツ)

B7 イージー・カム,イージー・ゴー (ボビー・シャーマン)

 

演奏: ダイアモンド・ポップス・オーケストラ

編曲: 服部克久

定価: 1,500円

 

長かった80年代、いや昭和50年代を抜け、戻って来ました歌無歌謡栄光期1970年に。そんな年の夏を狙って出されたこのアルバム、なんとアレンジャーに服部克久を起用という、これ以上に贅沢なものはないのではと思わせる作品だ。

それなのに、テーマは「クール・サウンド」。過去取り上げたアルバムでこれが冠されているものと言えば、バッキー白片は言うに及ばず、ユニオンのフルートをフィーチャーしたアルバム、筒美京平の「ヒット・ピアノ・タッチ」など。要するに、場末感をあまり感じさせることなく、爽やかな空気を振りまく音というイメージ。これも当然例外ではなく、海辺で戯れる乙女(と言えども、オープンすぎて今となってはかえって不道徳に見えるのが致命的…)の姿が、そのまま中の音へと導いてくれる。初っ端からそれを象徴するような波の音、オープニング曲としては地味と思えるが、主題としての役割を見事に果たしている「夏よおまえは」へと誘う。ここで聴かれる高貴なスキャットが、このアルバム全体を象徴する響きだ。ジャケットの乙女が大声を上げているというイメージはなく、サウンドの一部として定着するように、自分の意志をコントロールするような歌唱だ。個人的には、テイチク盤「長崎慕情」で聴けるようなしなやかな声の方が好みだし、あまり長く付き合わされるとかえって疲れる感があるが(クラウンの「もう一度」ほどではないにせよ)、これもまた音響的クールネスなのでしょう。「昨日のおんな」とか「わたしだけのもの」でそれをやられると、違和感しかないけど。高貴なオーケストレーションや音のあしらい方も、こういう世界もありだなと納得。歌無歌謡主流の真逆として、ちょうどいいではないか。他の曲もイントロに効果音が加えられたり、そのデリケートな響きが余計カラフルな印象を作り出している。「雨にぬれても」も、(悲しいけれど)山倉版など目じゃない完成度の高さだ。エンディングであの声が出しゃばり始めるのは余計なお世話だけど。「ふたりの天使」はこの歌唱の真髄を見せつける選曲だし、ここまで高貴な世界に転じた「経験」も新鮮な驚き。「鳥になった少年」は『ウマグマ』かと思わせる長閑な高原音の隙間から、ちょっとだけ鳥になったリコーダーが覗いている。声の方も歌メロの良さを引き立てていて、なかなかの名演。最後の曲はモンキーズ・ファンには嬉しい、フランキー・カテリーナ(!)のうきうきする名曲。メトロメディア・レーベルを持っていたコロムビアの「自社推し」だ。蛇足ですが、このレーベルから出たキャロリン・へスターのアルバムの中の1曲のイントロを、ちゃっかり片山三紀子「一月三日、八月五日」のイントロに応用してしまったのは、他でもないメロトロンズ小谷充氏でした。適当に洋楽部オフィスから拾って使っちゃったんでしょうかね。

さて、純粋な歌無歌謡アルバム(と言っても5曲は洋楽でしたが)を取り上げるのは、今回が最後。果たして次の復活はあるのでしょうか…今月に入って、相当やばい新規入手がいくつかあったので、なくはないとだけ約束しておきます。そして、今回の復活月間の最後には、またあのグループが登場いたします…