黄昏みゅうぢっく〜歌のない歌謡曲に愛をこめて〜

昭和40年代の日本大衆文化の重要構成要素、「歌のない歌謡曲」のレコードについて考察します。

ありがとう教授。貴方の恩は決して忘れません

はったりをかますことなく、スロースターターに徹そうと決めた本年度の黄昏みゅうぢっくですが、さすがに今黙ってばかりはいられません。この気持ちを明示できる場所が他にはなく、かと言って「歌のない歌謡曲」と全く無関係の命題ではないはずなので、宗内世津ではない本来の人格を貸すという形で、ここに意思を表明させていただきます。

 

昨日の夜、坂本龍一さんの訃報がネットを駆け巡りました。恐らく、リアルタイムでネットに接している時にいきなり訃報に面することは、日曜夜くらいしかありません。その直前まで、バンド仲間が主宰する文化交流ネット発表会に出席しており、本来の人格での本年度の創作活動方針に関して発表したところでした。その中でも、バンド仲間の一人の健康に関する深刻な話を聞いてヘヴィな気分になっていたし、途中テクニカルな問題に関して意見交換が続いている間、じっとしていられるかと傍にあったキーボードを弾き出して、こともあろうに「東風」のイントロを奏でさえしていたのです…まさかこれは「予兆」だったのだろうか、と。絶望的な気持ちさえ、建設的な思いによって上書きされると信じながらオフラインに去っていったのですが、待っていたのは真の絶望でした。

 

自分と坂本さんの関わりと言えば、必然的にここに書いた「サウンドストリート・デモテープ特集」の話に導かれます。恐らくそれが全てかもしれません。この「デモテープ特集」からも窺い知れるように、常に志を持つ者に対して優しく、時に厳しく接していた人。人格的にどうのこうの取り沙汰されたとは言え、自分にとって「坂本龍一」とはまず、そんな人でした。83年6月、NHK教育で放映された「YOU」にYMOで出演した際も、遺憾無くそんな面を見せつけ、これは現在まで提唱する「自然発生音楽」哲学の鑑に確実になっています。

この「デモテープ特集」が遠因となって、自分がインターネットに関わる上で重要な出会いが、その約11年後に相次ぎました。その点でも、坂本さんがいなければ今の自分はありません。

 

勿論、YMOに対して「歌のない歌謡曲を駆逐した」なんていう怨みの感情があるわけはなく、むしろ歌のない音楽を別方向に導いてくれた、そして当時の若者をクリエイティヴな方面へと誘導した存在として、遺憾ないリスペクトを送り続けています。いつまでも松浦ヤスノブのテナーを聴いていちゃいちゃしてるわけにはいきません。シンセであれサックスであれ、実際手にして音楽を演ること。それこそか正しい道なのです。

そんなYMOのライヴを、初めて足を踏み入れた日本武道館で観て42年と4ヶ月。あの時ステージに立っていた総勢10人の内3人が、今年の最初の3ヶ月の間に世を去りました。一つの時代の終わりが見えています。

 

さぁ、初心に帰って今こそ音楽を始めましょう。1978年のように。