黄昏みゅうぢっく〜歌のない歌謡曲に愛をこめて〜

昭和40年代の日本大衆文化の重要構成要素、「歌のない歌謡曲」のレコードについて考察します。

石橋正次さんの誕生日は11月12日

キャニオン C-1063 

京のにわか雨/琴のしらべ

発売: 1972年10月

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ジャケット

A1 京のにわか雨 (小柳ルミ子) 🅽

A2 旅路のはてに (森進一) 🅴

A3 木屋町の女 (青江三奈) 🅱

A4 別れの旅 (藤圭子) 🅱

A5 夜明けの停車場 (石橋正次) 🅲

A6 知床旅情 (加藤登紀子) 🅺

A7 お祭りの夜 (小柳ルミ子) 🅸

B1 旅の宿 (吉田拓郎) 🅾

B2 瀬戸の花嫁 (小柳ルミ子) 🆁

B3 通りゃんせ (佐藤公彦)

B4 わたしの城下町 (小柳ルミ子) 🅻

B5 鉄橋を渡ると涙がはじまる (石橋正次) 🅴

B6 波止場町 (森進一) 🅸

B7 京都から博多まで (藤圭子) 🅵

 

演奏: 山内喜美子 (琴)/キャニオン・オーケストラ

編曲: 小杉仁三

定価: 1,500円

 

今言われるととてもこそばゆい上、イデオロギー的に抵抗感さえ覚えるけれど、70年代初期はそれこそ「ディスカヴァー・ジャパン」という言葉に日本中が踊らされていた。戦後の急成長期が一旦佳境に入って、本来の生活観を見直してみようという風潮もあったのだろう。それを実感できない世代に育った自分は、その都度流行歌との愛憎劇を繰り返しながら、この異常な時代まで生き延びてしまったのだけど、今は当時の素朴な愛国心が愛しくてしょうがない。このアルバムで取り上げられている歌詞を読むと、石橋正次の2曲以外、見事に「日本らしい風景美」に統一されているではないか。まるでコンセプトアルバムのような、リリカルなシーンの連続。歌で過激なメッセージを叫ぶより、こちらの方が遥かにハートに刺さるではないか。そんな物語を言葉無しで編むのが、山内喜美子さんが奏でる琴の音だ。歌無歌謡にはまって、その魅力を再発見して以来、益々魅せられるばかり。東洋思想に基づいたサイケな幻想の音像化なんて思っちゃいけない。これこそが天然色であり、美の音響なのだ。

72年にはビクターで『惚れた/琴のささやき』、テイチクで『琴&京琴ニューヒット14/ひとりじゃないの』と快作を連発したが、このキャニオン盤もかなりの聴きごたえ。サウンド作りとしては、先の2枚ほどの実験性を感じさせず、オーソドックスな歌謡サウンドに終始しているけれど、その方が普通に映えやすいというか、彼女自身も気持良く演奏できてるのではないか。オープニングの「京のにわか雨」、オリジナル・ヴァージョンのイントロで聴ける京琴の音も恐らく彼女のプレイであり、数多の歌無盤にもその音を再現せんと呼ばれまくった形跡が残っているけれど、ここでは通常の琴でそのイントロを奏で意地を発揮。繊細なタッチからは息吹さえも伝わってくる。「こんなにこんなに愛してる」を手掛けた千坊/花コンビによる木屋町の女」も和製ソウル色を漂わせる名演で、この曲を山倉アレンジで聴きたかったという思いを募らせるし、藤圭子のリアルな悲劇を感じさせる「別れの旅」の孤高感には、未来を照らす光(どちらかというと「いちご色」の)が見え隠れする。「FIRST LOVE」辺りを山内さんの演奏で聴きたかった…この流れの中でも異色なのが、ケメの「通りゃんせ」。これには多少サイケ色を感じるのもしょうがないか。シンプルな曲調の分、海外のエキゾチック音楽ファンにも伝わりやすい演奏だ。わたしの城下町は多少タイムラグを経たゆえの控えめにユニークな解釈で、ドラムが地味に跳ねているのが聴きどころ。各コーラスの最後のフレーズを「タメ」ているのは意図的だろうか。間奏の最後は通常のメロディで弾いているのが惜しい。「波止場町」は先の2枚でも演奏されていたので、3番目のヴァージョンということになるが、演り慣れた分余裕綽々の演奏だ。

さて、72年に出た山内さんの盤は実はもう1枚あって、これもなかなか強力。ほんと、1年というか半年の間にここまでやっちゃって、超人としか言いようがない。