黄昏みゅうぢっく〜歌のない歌謡曲に愛をこめて〜

昭和40年代の日本大衆文化の重要構成要素、「歌のない歌謡曲」のレコードについて考察します。

石榴の森から優雅な調べ

テイチク SL-1260

琴と三味線による 夕月

発売: 1969年1月

ジャケット

A1 夕月 (黛ジュン) 🅺

A2 霧にむせぶ夜 (黒木憲) 🅷

A3 恋の季節 (ピンキーとキラーズ) 🅷

A4 小さなスナック (パープル・シャドウズ) 🅵

A5 484のブルース (木立じゆん) 🅱

A6 知りすぎたのね (ロス・インディオス) 🅹

B1 小樽のひとよ (鶴岡雅義と東京ロマンチカ) 🅵

B2 釧路の夜 (美川憲一) 🅶

B3 蒸発のブルース (矢吹健) 🅲

B4 忘れるものか (石原裕次郎) 🅵

B5 アンコ暮し (三音英次)

B6 旅路のひとよ (鶴岡雅義と東京ロマンチカ) 🅳

 

演奏: 山内喜美子・藤田都志 (琴)/杵屋定之丞・定二 (三味線)、テイチク・レコーディング・オーケストラ

編曲: 山田栄一

定価: 1,500円

 

68~69年のテイチクの歌無歌謡暴発ぶりは、歌無歌謡ファンを悩ませるばかりだが、それが頂点に達したのは69年1月新譜、見事に「夕月」をタイトルにしたアルバムを4枚も同時発売した時だ。

この当時の黛ジュンの勢いは只者でなく、前年のレコード大賞を「天使の誘惑」で獲得したのはいいけれど、その時点での最新曲「夕月」で歌謡の王道に妥協した結果だと散々な言われようで、老舗レコード会社各社も特に「古巣」のビクターや、「真赤な太陽」カバーの一件で一悶着あったコロムビアなどはかなり嫌味な目線でこの一件を眺めていた印象があるが、その一方でテイチクはこれですよ。まさにアイロニー全開。ジュン人気にあやかるというより、レコード会社の政治力なんて今更無意味という意思表示を、これらのアルバムに込めたのではないでしょうか。アルバムのライナーノーツでも、これら4枚のアルバムを「Collect ‘em all!」と煽ってきていますし。歌無歌謡なんてTPOで選ぶものだというパブリックイメージを、見事に挑発しようとしています。

さて、そんな「夕月」に最も映えそうな和楽器をフィーチャーしたのがこのアルバム。4枚の中では最も期待を裏切らないと読まれたはず。しかし、次第にその奥深さに飲み込まれていくのです。おなじみの琴のイントロ、オリジナルも当然山内さんの演奏だったはず。しかし、そこに三味線とリズム・セクションが加わってくると、舞台はいきなり離れ島の旅館の料亭に早変わりするのです。おしとやかなムードはあるけれど、それを凌ぐ場末感が異次元さを醸し出し、ミニスカねーちゃんの面影を一掃するのだ。「霧にむせぶ夜」はまぁいいとして(淡々としたリズムにチージーなオルガンが絡むところは異様だけど)、問題は恋の季節。オリジナルの雰囲気はそのままに、「グルーヴィ」と感じられる要素を全て一掃、そこに三味線と琴を乗っけてきてるので、無意識に場末サイケ色が滲み出ている。メインリフをギターとベースがユニゾンで奏でているとことか、間奏に被さるオルガンのコードとか、正に天然サイケ。「小さなスナック」も牛歩モードで妙な感覚だ。「484のブルース」「アンコ暮し」のサグ感も、「蒸発のブルース」の危険な駆け引き感も、どこかおしとやかな感じが加わり、ポップス色の濃い曲と不思議な調和を見せている。これも海外の人が聴くと立派なサイケなのでしょうか…ライナーにもそんなことが書いてあるし。米国のサイケ・サークルでインド哲学の次にアラン・ワッツがキテたのも、当時らしい話ですもんね。Harumiの次にこのアルバムを流しても、違和感なかったかも。